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ドゥマゴ文学賞受賞


武田砂鉄『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社・刊)
紋切型社会
新しい書き手。自由な批評。

「新しい意味でのジャーナリズムであるとともに
文化人類学の範疇に入る」
……藤原新也さん「ドゥマゴ文学賞」選評

「言葉の暴力に、不断に言葉で抗いつづける。
氏の活動の根幹にあるこの姿勢にこそ、新しい表現は拓ける」

……「(池田晶子記念) わたくし、つまりNobody賞」受賞理由

「柔軟剤なしのタオルと同じ。読むとヒリヒリ痛くて、クセになる。」
……重松清さん

「世に溢れる陳腐な言葉と格闘することはこの世界と格闘することだ。」
……白井聡さん

「育ててくれてありがとう」「全米が泣いた」「国益を損なうことになる」
「会うといい人だよ」「ニッポンには夢の力が必要だ」「うちの会社としては」……
日本人が連発する決まりきったフレーズ=定型文を入り口に、
その奥で硬直する現代社会の症状を軽やかに解きほぐす。
言葉が本来持っている跳躍力を取り戻すために。
初の著作、全編書き下ろし。

各オンラインショップにてご購入いただけます。
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池澤夏樹さん 『毎日新聞』書評、2015年5月24日
「この本にはそう書いてないが、言葉の政治学についての好著である。読後感は正に痛快。
〔中略〕この人は文体が際立っている。言語状況を切り捌く刃物が鋭利で、
その分だけ鈍器を振り回すばかりの世間の言説との差異が明らかになる」

藤沢周さん 『東京新聞』『中日新聞』書評、2015年6月7日
「麻痺してしまった脳ミソに、『思考』という清冽かつ凄烈な刺激を与えてくれる。
特に若い読者の方々、この日常の中で考えることの秘訣を手に入れるなら、これだ。風景が変わる。世界が変わる。必読」


小田嶋隆さん 『文學界』2015年7月号、特集「『反知性主義』に陥らないための必読書50冊」
「震災以降の日本のメディアを支配するそうした柔構造の言葉たちを〔中略〕根気良く咀嚼し、
そのニュアンスの細部を仔細に分析している。
途中で嘔吐しなかった根性も見事なら、最終的に排泄まで持って行った技巧も並大抵の新人のものではない」

中島岳志さん 『文藝』2015年秋号、書評
「紋切型社会を飼いならしながら生きることは、案外難しい。テンプレ言葉から完全に離脱することも難しい。
しかし、そこにメスを入れていかなければ、大きな波に飲み込まれてしまう」

武田鉄矢さん 文化放送「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」2015年8月24日〜9月4日
「用意された言葉でオチがつくという紋切型のジャーナリズムではなくて、
別の言葉と遭遇させる力を持った若きジャーナリスト武田砂鉄君の『紋切型社会」、
ぜひお薦めしたいと思います」

中江有里さん 『週刊新潮』2015年8月13・20日夏季特大号、「私が選んだ「ベスト5」」書評
「紋切型のフレーズで止まってしまった思考をちゃんと動かすための一冊」

『朝日新聞』読書面「著者に会いたい」、2015年6月14日
「決まりきったフレーズをつい選んでしまう例を見ていくと、
現代社会の病理がぼんやり見えてくる」

『読売新聞』読書面「著者来店」、2015年7月19日
「軽く流してしまいがちな言葉に立ち止まり、ねちっこく考え、思考を飛び火させ、連鎖させていく。
現代を考察した20章には、社会批評の痛快さがある」

『スポーツ報知』「BOOKセレクト」、2015年9月11日
「評論というほど硬くはなく、エッセーというほど柔でもない。
立ち位置も『紋切型』ではない、新たな書き手の登場だ」

永江朗さん 『週刊朝日』書評「ベストセラー解読」、2015年7月3日号
「紋切型は便利なだけに強力だ。つい使いたくなる。「国益を損なうことになる」と言うと、とんでもない大罪のように思えてくる。かくしてマスメディアも含めて日本人の感性は劣化していく」

陣野俊史さん 『日経新聞』夕刊書評、2015年6月11日
「この世に溢れる紋切型の言葉をバッサリと切り捨てる。新しい切れ味の批評集」
『サンデー毎日』書評、2015年7月5日号
「シニカルだが、以外と直球勝負の文章を書く。〔中略〕自分の身を削って批評文を書いているところがあり、信用できる」

宮田珠己さん 『本の雑誌』2015年7月号「ひるね優先読書録」
「どの章も説得力があり、面白くてするする読んでしまった。と同時に身が引き締まるようでもあった」

篠原知存さん(文化部編集委員) 『産經新聞』書評、2015年7月28日
「なぜ、いま、読み手の自分が「この手の文章」を懐かしく感じてしまうのか
ーにまで理解が及んで絶句させられる。面白くて恐ろしいサスペンスのような批評集だ」

内沼晋太郎さん NHKラジオ第1「すっぴん!」2015年5月14日、「本ときどき、マンガ」
「この人の文章は本当に「砂鉄」みたいに、しつこく、皮肉たっぷりに、じわじわと食いついてきて離れない。
この本が嫌いだという人もいると思うんだけど、それが良い本ということだと思う」

荻上チキさん TBSラジオ「Session-22」2015年5月19日(著者出演)
「あるフレーズが考えなく広がることに関して一個一個立ち止まって考えようと提案している。
僕は定型句についてはそんなに気にならないんですけど、ある種の紋切型は思想を伴う」

NHKラジオ「マイあさラジオ」2015年6月21日「著者に聞きたい本のツボ」(著者出演)

「共同通信」 2015年5月配信「旬英気鋭」(著者インタビュー)
「生前、自らを「拗ね者」と呼んだジャーナリストの本田靖春さんを敬愛する。「独りになることを恐れず、
複眼的に物事を捉えた本田さんを見習って、凝り固まりがちな世の中にもの申す “面倒なやつ” でいたい」


足立真穂さん(編集者) 「HONZ」書評、2015年6月14日
「なんともいえないパワーのある本で、身近な体験談や目にした言葉、読んだ文章の背景を鋭く模索してく道のりを描く筆致が、痛快なのだ。ついつい周りのひとに「あの本読んだ?」と感想を聞いてみたくなるのである」

竹田学さん(東京堂書店神田神保町店) 『AERA』書評、2015年6月22日号
「必殺仕事人よろしく悶死も厭わず関節を外し解体し〔中略〕
けれん味はあるが嫌みがない、皮肉・あてこすりは満載だが卑屈ではない、茫洋としながらも腰が据わった文体も魅力だ」

加藤幸典さん(今井書店) 『朝日新聞』鳥取版書評、2015年6月14日
「「解きほぐす」のではなく、真剣を振り回してバサバサと斬っていくような文章なので、
好みが分かれるとは思いますが、ハマれば気持ちいいこと間違いなしの本です」

塚崎謙太郎さん(西日本新聞) 『西日本新聞』「デスク日記」、2015年7月10日
「揚げ足取りすれすれで展開する論の妙にうなずきつつ、そんな言葉を反復し、流通させてきたのは新聞でもある、と気付く」

「週刊読書人」 2015年6月12日、社会学者・牧野智和さんと著者対談「不気味な時代をえぐる/分析する」
牧野さん「武田さんの『紋切型社会』を読んで、この対談は難しいぞと思ったんです。何しろ紋切型を使えないですからね(笑)……」

「新文化」 書評、2015年6月18日
「紋切型の言葉が生まれてくる背景を丁寧に、だが軽妙に語る著者の筆致が鮮やかだ」

倉本さおりさん(ライター) 『週刊金曜日』書評、2015年5月29日号
「エッセイと呼ぶには歯応えがありすぎるし、コラムの枠にも収まりきらない。
言葉本来のしなやかさを十全に活かした、新しいタイプの批評集だ」

宮野源太郎さん(丸善・ジュンク堂書店営業本部) 『週刊ダイヤモンド』書評、2015年6月6日号
「若い新しい批評家の登場です。言葉が陳腐だというだけでなく特定の発露が強要され、
言葉が持つしなやかで新しい時代を開く力が失われている、と訴えます」

中川淳一郎さん 「Business Journal」書評、2015年5月16日
「それこそ、ひねくれ者にとっては違和感ありまくりの事象に対し、丁寧な異議を呈した点は
案外若手ビジネスマンや学生にとっても参考になるかもしれない」

松岡瑛理さん(ライター) 「LITERA」書評、2015年5月17日
「薄っぺらい「言葉」の首根っこを掴まえ、その裏に隠れた本質を捉えるべく、ひたすら格闘したプロレスのような一冊だ。
ページをめくれば、読者もリングに上がることを余儀なくされる」

『中日新聞』『東京新聞』夕刊 2015年6月3日「大波小波」(柔軟氏コラム)
「かつてフローベールは、陳腐な言い回しや凡庸な意見を『紋切型辞典』で皮肉ってみせた。〔中略〕その精神を受け継ぐかのように、痛快に紋切り型の表現を斬ってみせる」

「読売新聞 yomiDr./ヨミドクター」2015年9月7日〜「編集長インタビュー」(著者インタビュー)

「ビジネス+IT 」2015年9月14日「『紋切型社会』著者に聞く」(著者インタビュー)

『ケトル』2015年夏号 vol.26「ネタモト」(著者アンケート)

『日経エンタテインメント!』2015年8月号「ベストセラーの芽」
「社会評論にとどまらず、ビジネス的な観点に刺激を受ける読者も少なくないとか。じわじわと、だが確実に売れ伸びている1冊だ」

『AERA』2015年7月27日号「夏の読書特集」で花本武さん(BOOKSルーエ)ご紹介

『週刊プレイボーイ』2015年7月号「“本”人襲撃」(著者インタビュー)

「ダ・ヴィンチNEWS」2015年6月1日(著者インタビュー)

『R25』2015年5月28日号「最近、なに読んだ?」(著者インタビュー)

『Rooftop』2015年6月号(著者インタビュー)

『宝島』2015年7月号「編集部が選んだ3冊」

「日経ビジネスONLINE」2015年5月13日「絶賛!オンライン堂書店」(編集者寄稿)

「CINRA」2015年4月24日(ニュース+著者コメント)


[目次]
はじめに←クリックで立ち読みできます
「乙武君」………障害は最適化して伝えられる
「育ててくれてありがとう」………親は子を育てないこともある←クリックで立ち読みできます
「ニッポンには夢の力が必要だ」………カタカナは何をほぐすのか
「禿同。良記事。」………検索予測なんて超えられる
「若い人は、本当の貧しさを知らない」………老害論客を丁寧に捌く方法
「全米が泣いた」………〈絶賛〉の言語学
「あなたにとって、演じるとは?」………「情熱大陸」化する日本
「顔に出していいよ」………セックスの「ニュートラル」
「国益を損なうことになる」………オールでワンを高めるパラドックス
「なるほど。わかりやすいです。」………認め合う「ほぼ日」的言葉遣い
「会うといい人だよ」………未知と既知のジレンマ
「カントによれば」………引用の印鑑的信頼
「うちの会社としては」………なぜ一度社に持ち帰るのか
「ずっと好きだったんだぜ」………語尾はコスプレである
「“泣ける”と話題のバラード」………プレスリリース化する社会
「誤解を恐れずに言えば」………東大話法と成城大話法
「逆にこちらが励まされました」………批評を遠ざける「仲良しこよし」
「そうは言っても男は」………国全体がブラック企業化する
「もうユニクロで構わない」………ファッションを彩らない言葉
「誰がハッピーになるのですか?」………大雑把なつながり
おわりに


武田砂鉄


武田砂鉄(たけだ・さてつ)
1982年生まれ。ライター。東京都出身。大学卒業後、出版社で主に時事問題・ノンフィクション本の編集に携わり、2014年秋よりフリーへ。「cakes」「CINRA.NET」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」等で連載を持ち、多くの雑誌、ウェブ媒体に寄稿。インタビュー・書籍構成も手掛ける。本書が初の著作となる。


撮影:宇佐巴史


はじめに

10ポンドと15ポンドしかボールが用意されていないボウリング場で、「どちらかの球を選んでください」と言われる。自分にとって投げやすい重さは12ポンドなのだが、澄まし顔で「このどちらかで」と言われる、そんな社会である。強制の意思はない。だから、選ぶほうも素直にどちらかを選んでしまう。回答のバリエーションを諦めている「紋切型社会」。

なぜ決まりきった、あらかじめ用意されたいずれかを選ばなければならないのだろう。ローションを身体に塗りたくって、自分がボールとなりピンに向かって突っ込んでみてもいい。隣接するスーパーで西瓜を買ってきて転がしてみるのも面白い。もう、ボウリングなんかやめてプリクラ撮ってカラオケに行こう、だって構わない。何もせず家に帰ってしまう自由もある。主体的に舵を取れば、選択肢など、いくらでも掘り当てることができる。

多様性を作り出せる場面なのに、すでにそこに用意されている10ポンドか15ポンドかの二つから選択してしまう社会。二項対立、とは違う。対立すらしていない。誰かから強制されたわけでもないのに、既存の選択肢にすがる緩慢さが閉塞感を補強する「紋切型社会」。


特に言葉。フレーズ。キーワード。スローガン。自分で選び抜いたと信じ込んでいる言葉、そのほとんどが前々から用意されていた言葉ではないか。紋切型の言葉が連呼され、物事がたちまち処理され、消費されていく。そんな言葉が溢れる背景には各々の紋切型の思考があり、その眼前には紋切型の社会がある。

「紋切型社会」を象徴する言葉をあらゆる方向から拾い上げ、二〇ほど並べて考察していく。目次を開き、目に留まった言葉から読み進めてみてほしい。紋切型社会、そしてその社会を硬直させる言葉は、決して政治や時事問題にだけまとわりついているわけではない。ありきたりな言葉、いたずらに反復されていく言葉は、生活の様々な場面にこびりついている。

一見、取り留めのないこれらの言葉は、本来の言葉が持っているはずの跳躍力を低めてしまう。本書は、骨太な評論でも柔らかなエッセイでもない。かしこまった思索もあれば、思いつきに体を預けた放言もあり、指を差された側をたちまち憤らせる皮肉をまぜこぜにしている。ひたすら揚げ足を取り続けているようにも読めるかもしれない。でも、揚げ足を取らないからこそ、その足がずんずん迷いなく歩き出し、空気ばかりが稼働してしまう。

放たれた言葉が紋切型として凝り固まっていく社会はつまらないし、息苦しい。固めないために、とにかく迂回を繰り返す。揚がった足を掴まえてみた。



02 育ててくれてありがとう――親は子を育てないこともある

結婚披露宴に呼ばれる度、クライマックスに用意される慣例としてのサプライズ、新婦から両親への手紙を今か今かと待ち構える。日に何本かの式をハシゴしているであろうこなれた司会者が「楽しく、おめでたい、この、披露宴も、たけなわで、ございます。ここで、新婦の明子さんより、ご両親へのお手紙がございます」。

披露宴に呼ばれること一〇回ほど。記憶を辿りながら新婦から両親に向けた手紙を平均化してみるとこうなる。

「お父さん、お母さん、こうして手紙を書くなんて、初めてだから、緊張しているよ。なんだかとっても照れくさいです。今日、こうして、拓也さんと結婚式を挙げられたこと、そしてこの晴れ姿をお母さんとお父さんに見せることができて、本当に嬉しいです。

お父さん……初めて拓也さんを紹介した時のことを覚えていますか。その小さな目を思いっきり開いて愛想を振りまいている姿、私が知っているお父さんじゃなくって、おかしくっておかしくって。普段は寡黙なお父さんが私は大好きだけど、そんな愛想を振りまくお父さんもなんだか可愛らしくって大好きだよ。今日は本当にありがとう。

お母さん……お母さんには拓也さんのこと、お父さんに言う前から相談に乗ってもらっていたよね。一番近くに味方がいて、なんでも相談できて、心強かったよ。高校三年の時、進路のことでお母さんと大げんかになって、私、家を飛び出しちゃって、でも行くところといったら幼なじみの由美のところしかなくって、お母さん、そんなこと分かってたみたいで、先に由美のお母さんに電話をして、今から行くと思うから面倒見てあげてください、ってお願いしていたこと、後から知って私、本当に嬉しかったよ。だから、そんなお母さんに、今日という日をプレゼントできて本当に嬉しいです。

これから私は拓也さんと、二人に負けないような温かい家庭を築いていきます。まだまだ未熟な私たちだけど、これからも見守ってください。お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとう」

起承転結のうち起・転・結はおおよそ決まっている。本来、話のバリエーションを持たせやすい「転」が、いつも同じストーリーテリングに甘んじているのが面白い。必ずちょっとした反抗期を使うのだが、反抗期の過大評価が疑われる。「転」を作らなくてはスピーチが引き締まらないという新婦の思い込みが、母親とのいざこざを深刻気味に引っ張り出した疑い。晴れの舞台とはいえ、これほど近似するスピーチを連発してくるのはいただけない。大学のレポートならば単位を失効するほどのコピペに該当するが、わざわざ決まりきったサプライズを行なうというのに、中身まで平凡に決まりきっていてグッタリしてしまう。一生に一度と、そちらからプレゼンしてきたというのに。

こういう公的な文面には大抵サンプルがある。結婚式のスピーチブックだけではなく、校長先生用に朝礼の話集まで販売されているのだから、両親への手紙にもサンプルがあっても驚きではない。しかしながら、両親への手紙くらい、自分で書けよ、と思う。

こちとら結婚式の友人代表挨拶を「ところで皆さん、この彼の魅力って何なんでしょうか。さっき、自分のテーブルで訊いてみたんです、彼の魅力って何なんだろうと。みんな、首をかしげるんです。言われてみれば何だろうね、と。でもですよ、みんなが首をかしげるのに、これだけの人が集まるというのは……」と始めたら最終的に拍手喝采で終わったのだけれど、終わった後でわざわざオフィシャルな方面の出席者が集うテーブルに呼び出されて、どうして「ご両家におかれましては……」のくだりを入れないのかと深刻そうな顔で問い詰められた。晴れの舞台なのでにこやかに「なぜ入れなければいけないのでしょう?」と返すと、「普通、入れるだろう!」と赤ら顔のオジサンが返してくる。「普通、ですか。ほら、今日は特別ですから普通ではないことを」とキレイに返したかったのだが、晴れの舞台なので「はぁー、まぁー、そぉーですねぇー」と雑にかわすにとどまった。披露宴に出向き、「ご両家におかれましては……」に始まるひねりのないスピーチを聞く度に、あのオジサンの赤ら顔を思い出す。

「ゼクシィ」のサイトに「花嫁の手紙」のサンプル文が掲載されている。いかにもそのままコピペして使えそうな温度で、さすがのバランスの良さを感じる。お読みいただこう。

 お父さん、お母さん。今日までの26年間、本当にお世話になりました。ふたりに育てられた日々を振り返ると、楽しかったいろいろなことが次々に浮かんできます。

 子どもの頃の私は走るのがすごく遅くて、運動会が苦手でした。前日にお父さんがアドバイスしてくれたのに、やっぱり急には早く走れなくて…。でもビリになって泣きべそをかきながら走る私を最後まで大きな声で応援してくれてすごくうれしかったです。お母さんは、私が小学校に入るまで毎晩、布団の中で絵本を読んでくれましたね。「またこれ?」と笑いながら、同じ絵本を何度も何度も、本屋で絵本を見るたび、優しかったお母さんの声を思い出します。ふたりのあたたかな愛情に包まれて幸せでした。感謝しています。

 今日からは○○さんと、仲良く笑い声のあふれる家庭を築いていきたいと思っています。長い道のり、ふたりで力を合わせていきますので、これからも私たちをずっと見守っていてくださいね。まだまだ未熟者ですが、どうぞこれからもよろしくお願いします。

この手紙は三つの段落に分かれており、「書き出し」「エピソード」「結び」のそれぞれのカテゴリが何パターンもの文例から選べるようになっている。パズルを組み合わせるように、サラダバーでお好みのトッピングとドレッシングを選べるように、自分だけの手紙が作れるようになっているが、果たしてそれは自分ならではの手紙なのだろうか。相手の名前は「○○さん」と明記されているのに、なぜか冒頭で「今日までの26年間」と婚姻年齢が特定されているのも不可解だし(厚生労働省の二〇一三年発表のデータで、女性の平均初婚年齢は二九歳)、「できちゃった婚」を想定した場合のサンプル文では「娘がいきなり母親になってしまうような頼りない私ですが」と余計なお節介をかましていて、ちっともいただけない。こうしてあらかじめストックされている言葉をサラダバー的に調合して、ベルトコンベアに流すように自分だけの花嫁の手紙は量産されていく。花嫁の手紙がいたって平凡なのは、サンプルがいたって平凡なのに、その平凡さを特別なものとして享受したつもりになるからなのだろう。

このサンプル文掲載にあたって、「ゼクシィ」は花嫁の手紙のポイントを「育ててくれた親への感謝の気持ちを素直に言葉にすることを重視して」とする。書き出しについての注意事項として「最初は『お父さん、お母さん』といった呼びかけがスタンダード。どんな言葉で始めるかで、印象はがらりと変わるもの。『今までありがとう』『心配かけてごめんなさい』と語りかけるような言葉を盛り込むのもおすすめ。しんみりは苦手という人や文章に自信がない人は『初めて手紙を書きます』とひと言を添えても」と書く。

育ててくれた親への感謝、この言葉をスムーズに受け入れられない。全ての子は、全ての親に感謝をしなければいけないのだろうか。いわゆる普通の結婚式をする人は、いわゆる普通に親に感謝できる子であることが多い。しかし、それは「普通ではない」への想像力を欠いている。


まだ個人情報に対する感覚も鈍かった中学の頃、学年全員分の住所と電話番号に加えて、両親の名前が載った電話帳が新学期の度に配られていた。その電話帳を眺めて真っ先に気になるのは、片方の親しか記載されていない同級生の存在だった。お父さんがいてお母さんがいるのが自分の中では当たり前だったから、電話帳に片方しか親が印字されていない同級生に対して、遠巻きから下世話な目線を向けていた。離婚したのかもしれないし、死別したのかもしれない。電話帳に欠けている親の存在にイレギュラーを先んじて察知して、とにかくあの子は〝イレギュラー〟な家庭なのだと頭に植え付けていた。今やこの電話帳の存在は個人情報保護の観点からは大問題だろうが、二人の親が揃っていない場合もあること、日本人ではない場合もあること、少なからずその多様性について、黙々と知ることができた。

ゼクシィの「書き出し」文例集の冒頭にあるのは「お父さん、お母さん、嫁ぐ日を前にふたりへ宛てた手紙を初めて書いたので、聞いてくださいね。26年間、今まで私を育てていただいて本当にありがとうございました」だ。この〝レギュラー〟は時として暴力にすらなる。お父さんと、お母さんがいて、その両親が必死になって育ててきたんだよ、という家族の前提。日頃は、さすがに古臭い概念だとは気付いているものの、こういったおめでたい場所になればなるほど、この手の一般例は晴れの舞台だからと許容され、勢い良く発動する。パブリックなシチュエーションになればなるほど、家族観がすんなりかつてのスタンダードに戻っていく。

家族は家族を敬うべきだと思うが、必ずしも敬うべきではない。育ててくれたのならありがとうを言うべきだと思うが、必ずしもありがとうを言うべきではない。家族のあり方を規定しすぎる働きかけは善良な顔をした暴力になり得る。

「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」

二〇一二年に自民党がまとめた日本国憲法改正草案にはこんな記載がある。家族の助け合いが「なければならない」と強制されている。体じゅうをタバコの焼印だらけにされたトラウマを持つ息子も、母親の過干渉からようやく独り立ちした娘も、再三注意を促すも悪事に手を染め続けてきた息子を持つ親も、家族であるのだから互いに助け合わ「なければならない」のである。第二四条の「家族、婚姻等に関する基本原則」の冒頭に唐突に加わるこの一文と、ゼクシィのサンプル文「今まで私を育てていただいて本当にありがとうございました」はスタンスを共有している。法規と模範回答とが同化している。

現行の憲法はどうなっているのだろう。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」である。現行は「夫婦は協力して婚姻関係を保ちましょう、でももし難しければ、その時も平等にやりましょうね」という方針。ところが、自民党の改憲案では、家族は「社会の自然かつ基礎」であり、「互いに助け合わなければならない」と明記されている。法律が「ならない」という口を持ったからには、「できない」時への対応が新たに生じる。その対応とはいかなるものになるのだろう。

父がいて、母がいて、子どもがいる。その当たり前を伝統的家族像として設定する政権は、「面倒だしやっぱり育児は女性がやってよ」という内心を「3年間抱っこし放題」と名訳して再度宣言してみせた。役割分担の押しつけが堂々と闊歩している理由を訪ね歩くと、「オフィシャルな時に外向けに使う家族観」に行き着く。ゼクシィが「育ててくれてありがとう」をサンプルとして提示し、一生に一回(の予定)だというのに、コピペの手紙で涙を流すように働きかけてくることは、結果的に家族観を貧相に、そして一元的にする。


今、「1/2成人式」という学校行事が全国に広がっている。成人式の半分、一〇歳の時に親子で参加する式典だ。子は親に感謝をし、親は子に感謝をする。幼少期の写真を見せて、名前の由来を親が発表する。キャンドルサービスでお返しする子ども。生まれてから一〇歳になるまでの思い出を語るコーナー。教育というより罰ゲームに位置付けられる企画だと思うが、ベネッセのアンケートによれば、九割近くの親が「満足」と答えている。

「子どもからわたしたちに対する感謝の気持ちを伝えられ、夫婦で涙しました。普段はなかなか聞く機会がない子どもの思いを聞くことができて、とても良かったです」「自分が家族にどれほど誕生を祝福され、健やかな成長を期待されてきたかを伝えるために、お腹にいるとわかったときのよろこび、難産を乗り越えて対面したときの感動などを話しました」と、素直な感想が並んでいる。

ジョン・レノンじゃないが、想像してごらんなさい。一〇歳の時点で、親が替わっている子もいれば、親との死別を乗り越えようと踏んばる子も、「両」親には感謝できない子もいる。本当は親が大嫌いなのに、無理やりに良さげな手紙を書いている子どももいるだろう。満足したのは九割という数値が、満足していない一割の存在を明らかにしているが、その子どもたちへの配慮は皆無。全くの正論を垂れると、教育とは、九割に向けてではなく、一割にも目をやることを教える時間・場所ではないのか。「イジメられる側にも問題があるのでは」「虐待は連鎖するから」、この手の紋切型がいつまでも繰り返されるのは、教育が堂々と残りの一割を放ってきたからだろう。

ゼクシィが「育ててくれてありがとう」をサンプル文に入れているのも、彼らが九割を相手に商売しているから。この常套句は、彼らにとってみれば、顧客を最大化させる上で妥当性がある。

田房永子はコミックエッセイ『ママだって、人間』(河出書房新社)の中で、子どもを産んだ直後、赤子を抱えて、「大変なものを生んでしまった…」と青ざめる。この可能性を、教育は、両親への手紙のサンプル文は、教えてくれない。目の前にいる子どもを無事に育て上げることが母親の既定路線としてそびえ立つ世の中では、ママだって人間ですとは言わせてくれない。はいはいはい、と一回でいい「はい」を連発して、あんたのことを考えている場合ではないでしょう、この子のことを第一に考えなさい、あんただって、あんたよりこの子が大事でしょう、と小さな違和がたちまち踏み潰される。

子は親の生き写しではない。おおよその場合、親は子を育てるが、育てないこともある。多様性を、ありきたりの式次第や取って付けたような感動で踏み潰す動きに対して慎重になりたい。「育ててくれてありがとう」にハンカチを濡らす前に、残りの一割に対して敏感でありたい。そのためにも、つまり家族のパターンを確保するためにも、結婚式のスピーチ各種くらい、サラダバー的な他人任せの素材で作り上げるのではなく、ご自分の言葉でお願いしたい。日に何本もの式をハシゴしているこなれた司会者に、「明子さんの思い、今、お母様に伝わりました」と片付けられないようにしなければいけない。明子さんの言葉は、大抵の場合、お母様に届くけれど、届かないこともある。届かせるべきではないこともある。この当たり前を獲得しなければいけない。



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